レインフォール Rainfall
神楽坂朱夏 Shuka Kagrazaka
ビーズを零したような音に目を覚ますと、外はすでに雨で霞む夜だった。庭の金木犀はいつの間に花をつけたのか、雨の匂いに混じって深い香りを部屋に伝えていた。
身体を起こし、枕許に常備してある薄荷の喉飴をひとつ口に含むと、私は寝付けない自分にかすかな苛立ちを感じつつも、仕方なくその飴を口の中で転がし続けていた。甘さとともに、薄荷特有のすっきりとした苦さが、私のなかに切なく拡がってゆく。この味はなぜかいつも私を切ながらせる。でも、それがなぜなのかはいくら考えてもわからなかった。そして、その不可解さが、私にはひどく重苦しいように思えるのだった。
しばらくじっとしていると、ふと、視線を感じた。右へ振り向くと、闇の中で、恭子の黒い瞳がこちらを見つめて輝いているのだった。
「起きていたのか」
「あなたこそ、珍しいわね」
いつもと同じ、抑揚のない声で話す恭子の表情は、この闇に溶けてしまいそうなほどに透明な印象を私に与えた。左の肘で身体を支え、半身の姿勢になって彼女は私のほうを向いた。
「寝付けないんだよ」
「いつも一度寝たらちっとも起きない人が?」
「たまにはこんな日もあるんだよ」
「たまには、ですって」
苦笑いを浮かべながらそう答えた恭子に、私はいつになく辛辣な彼女の怜悧さを感じた。もともとが賢い人間である恭子は、少しの言葉で十分に人を突き刺す方法をよく心得ていた。そんなしたたかさが時には疎ましくもあったのだが、それでも恭子は美しかった。夜の似合う、物憂い美しさは、日射しの許でかがやく美しさとは違い、白檀香のような深い薫りを感じさせるのだった。私は、その美しさを愛していた。
恭子は降りかかる前髪をそっと掻き上げ、私に優しい微笑みを投げかけてきた。相変わらずの深い微笑みに、雨の匂いが強くなってきたような気がした。
「雨ね……」
「ああ、急に冷え込んできたと思ったらこれだよ」
「体調を崩さないようにしないと……」
「もう崩しかけているよ。仕事も忙しいし、まったく……」
「そんなにも忙しいの?」
「まさに死ぬほど、だよ」
私は飴を噛み砕き、ひとつ盛大なため息をついてみせた。不快な甘さが口に残る。
たしかに私は疲れていた。偶然が重なったのか、同僚が何人か一斉に会社を辞め、彼らの仕事が一気に残された私の肩にのしかかってきたのである。日々は急激に重苦しいものと化した。
誰が悪いわけでもない。辞めた仲間にも辞めるなりの理由があったのだろうし、時期が時期だけに、人員の補充もままならぬ会社の言い分も十分に理解できたのだ。しかし、この日々は私にはひどく堪え難いものだった。体力的な辛苦は言うまでもなく、それ以上に、自分にもよくわからない精神的な不可解さが私をひどく苦しめる。
私の人生は平凡なものだった。毎日をそれなりに生き、恭子と一緒に生活をしているだけの、何の変哲もない人生なのだ。このかた苦労らしい苦労もしたおぼえがなかった。絵にもならないような普通の生活。そんな、普通の生活が、なぜか最近はすっかり遠ざかっているような気がする。
だけど、それさえも単なる錯覚にすぎないのかもしれない。私を取り巻く状況は、じっさいは何一つ変わっていないのである。せいぜい私の残業時間が増えただけの、それしきの変化にすぎないのだった。だからこそ、なぜこの日々をここまで重苦しいと感じるようになった自分がいるのか、その理由がわからなかった。そして、わからないというその不安定さが、いっそう私を強く締めつけてゆくのだった。
「すっかり目が覚めてしまった」
と、私は枕許の電気スタンドのスイッチを入れ、こうなればしばらく起きていようと決心したのだった。一瞬の眩しさが視界を奪ったが、それもじきに慣れ、世界は先程よりもはるかに鮮明に映るようになった。
雨は強く降り注いでいた。灯りを散り散りに跳ね返す雨粒の群れがまるで一反の絹のようにゆらめいて見えた。
壁掛けの時計は午前二時五分を示していた。音のしない連続秒針はなめらかに時を刻む。二十秒のあたりにさしかかるたびに、一瞬の銀の光を私に投げかけてくる。その光に、私は妙な不快さを感じた。
そのとき、ふと、恭子がやけに静かなことに気付き、眠ったのか、と私は改めて彼女のほうへと視線を向けた。彼女は相変わらず私を見つめて無表情な微笑を浮かべていた。その深遠さは、深夜の川面を橋の上からながめたような、あの恐怖感にも似た不思議な迫力を伴って私に打ち寄せてくるのだった。
「どうかしたのか」
と私が訊いてみても、彼女はその沈黙を崩さない。私はふいに彼女へ憎悪めいた不気味さをおぼえた。いつもの美しさが今はただ凶々しい不吉さの表徴のように思えてならなかった。雨の音が沈黙を重苦しく彩っている。
「……あなたにはわからないのよ」
表情を崩さずに、恭子は呟いた。黒い瞳が虚穴(うろあな)のように私を吸い込もうとしているようだった。
「あなた、絶望ってしたことある?」
「絶望?」
「そう。こんな秋の夜にふいに訪れる、自分でもどうすることもできないほどに昏いあの感覚。振り払おうとしても、いつまでもこの身にまとわりついて離れようとしない、この厭な感じ。あなたは感じたことがないの?」
「……ここ最近はずっとそんな感じだよ。疲れすぎて仕様がない」
「ここ最近……あなたって、やっぱり若いのね。若すぎるわ、ほんとうに」
急に嘲りの調子を伴って笑いだす恭子に、今度ははっきりとした憎悪を感じ、私は次の瞬間彼女を強く睨み返していた。しかし彼女は何一つ悪びれた素振りも見せず、その虚ろな黒い視線を私の向こう、縁側の雨の風景へと投げかけていた。視線がかみ合わなくなったことが私をいっそう苛立たせたのだが、彼女はそんなことをまったく気にする様子もなく、ふたたび話をはじめたのだった。
「私はね、気付いたら絶望している自分がいるの こんな雨の日は、夜も眠れないほどに。たまらないのよ……この音が」
「雨の音……」
私は耳を傾けた。雨は木板を滑るさらさらした砂粒のような音をたてている。それは昏い海のさざ波を思い起こすような、懐かしささえ感じさせる音だった。恭子は、この音がたまらないのだと言う。
「どこまでも堕ちてゆくような、この音がたまらなくて仕様がないのよ。じっと聞いていると今にも気が狂いそうになる……。早く眠ろうと思って目をつむると、音がどんどん私の身体の中に沁み込んできて、心をじめじめと侵蝕してゆくの。だから目を開けていろいろなことを考えるより他はないのだけど、そうしていると今度は深いあの暗闇が私の眼を圧し潰そうとしてくる……」
「それじゃあ、きみは雨の夜は一睡もしていないとでも言うのかい?」
「ええ。いつの頃からだったかしら……もうそんなことさえ忘れてしまうくらいに以前からよ。あなた、知らなかったでしょう? 当然だわ、あなた、ほんとうにうらやましいくらいに眠ったらもう起きないんですもの。わたしはそんなあなたのたるみきった寝顔を見て いつも厭になるの。ひょっとしたら次の瞬間にわたしが首を絞めてしまうかもしれないのに、あなたったら、まったくの無防備なんですから。どうしてそんなにも穏やかな表情で眠れるの? こんなにもわたしたちの周りからいろんなものがわたしたちを圧し潰そうとしているのに、どうして……」
私は、熱に浮かされたような恭子の病的な語りに言葉を失ってしまった。そして不安を感じた。不安? いや、そんな軽い響きでは済まされない、もっと重苦しい感覚だ。恭子の呟きのひとつひとつが、病床の呻きのように私に衝撃する。その呻きの隙間を埋めるこの雨の音……。空気が急に冷え込み、秋は確実に終わりを迎えようとしていた。
「いったい何が 何がきみをそんなにも追いつめようとしているんだ? いったいきみは何にそんなにも絶望を感じるんだ?」
「何に……そんなものがはっきりと目に見えたらいいのにねえ! ほんとうに、そうだったらねえ!」
ますます狂ったように嘲笑を高める恭子の無表情さに、私は激しく動揺した。恐怖さえ感じたのだ。
私はこんな恭子の姿を今まで一度も目にしたことがなかった。いつもの物憂い夜の美しさが、その内と外とを反転させて、思わぬ絵を見せつけるような、悪趣味なグロテスクさが漂っているようでさえあった。
夜は果てしなく透明なビーズを零し続けていた。その音は次第に私の胸の中にも降り積もり、私は溺れるような息苦しさを感じるようになった。息を継ごうと新たに口に含んだ薄荷の飴は甘すぎて、私は胸が悪くなって思わずそれをティッシュの上に吐き出してしまった。胃のあたりから何かがせり上がろうとするのを必死で我慢した。
そのとき、世界が急激に具体的な重さをもって私を圧し潰そうとしているのを感じた。私はすでに恭子を凝視できなくなっていた。押しよせる吐き気にそれどころではなかったのだ。
「ねえ、わかる? 絶望するのに、理由なんて何もいらないのよ。そう、何も。でも、あなたにはわかりっこないのよ。一生わかるわけがないんだわ!……」
恭子の狂ったような声に、私はもはや言葉を返せないほどの体力の喪失を感じていた。ただ一言、「わかった」とさえ言うことができなかった。重苦しい感覚が私の口を封じてしまった。
しかし、たとえそう言えたところで、目の前の恭子がその言葉を信じるなどとは、今の私にはどうしても思えなかったのだ。恭子の論理は「わからない」という一言で私のすべての反論を封じ込めてしまっていた……。
「日常は絶望の毎日よ。でも、生きてゆくしかないの。生きてゆくしかないのよ。そして、生きてゆく限り、この雨の音からは決して逃れることなんてできない。目を背けても音は消えない、耳をふさいでも、心が絶望を聞きわけてしまうんだわ……」
恭子のため息が聞こえてきた。その息にこもった情感が、私の心をひどく切ながらせた。しかし、その切なさの正体を私は知ることができなかった。言葉にならない不可解さだけが、ただ重く包み込むように私を慰めるのだった。
そうして、急にふさぎこんでしまった私を見て、恭子はいつもの優しい笑顔で私の背中をそっと撫でてくれたのだった。そして、耳許でこんなことをささやく。
「でもね、どれだけ絶望していても、わたしはあなたを愛しているの。その気持ちに嘘はないのよ。あなたを愛しているからこそ、わたしはこの絶望に堪えてゆけるのよ……それだけは、どうかわかって頂戴ね」
私には、その愛の告白がまるで死の宣告に似ているように思えたのだった。
後半へ