* * *
 
 ……雨は降り続いている。身体の芯まで凍てつかせるような冷たさが、部屋をしっとりと抱いている。私はほかに何をすべきかがわからないままに、一心に目の前の壁を見つめていた。
 恭子はすでに眠りの中にいた。あれほど「眠れない」と言っていた彼女は、すでに夢の中なのだ。私はその事実に奇妙な落胆を感じていた。私も感じたあの重圧的な絶望はいったい何であったのか、そんな虚しい想いにとらわれたからだ。
 私は恭子の寝顔を見つめた。美しい寝顔だった。どことなく緊張を残した、しかし穏やかな眠りの表情。規則正しく響く呼吸は彼女の胸をなだらかに上下させる。その有機的な精巧さは私の心をなぜかしら深く打つのだった。そこには憎悪など感じる隙間もないように思えた。
 
 先刻の彼女は幻だったのだろうか。そんなことを考えずにはいられなかった。この美しい彼女が、あのような狂気じみた絶望を抱いているというのが私には何よりも信じられなかった。と同時に、いちばん彼女の近くにいながら、彼女の絶望に今夜ようやくはじめて出会ったという事実に、深い怖れと悲しみをおぼえていた。
「あなたにはわからない」  そうだ、たしかに私にはわからなかった。それどころか、彼女の絶望のはじまりも、きっかけも、その深さも、何もかもがまだわからないままだった。いや、それだけではない。私にはわからないことが多すぎたのだ。薄荷の飴がもたらす切なさの理由、連続秒針の不快さの正体、昏い雨音、そして、この日常の重苦しさ……すべてがわからない、そのわからなさゆえにいっそう重苦しくなってゆく、その感覚自体も。
 恭子の叫びも、ひょっとしたら、そのことを言いたかったのだろうか。
「そんなものがはっきりと目に見えたらいいのにねえ!」
 きっと、彼女にもこの絶望の正体はわからないのだ。ただひとつ言えることは、この晩秋の哀しい雨音が、彼女の心の底にあった名付け得ぬ不快さを掻き立てたということ、その不快さが彼女を狂わせずにはいられなかったということだけだ。
 しかし、その彼女も、今は穏やかな眠りに支配されていた。その穏やかさは清らかな美しささえ匂わせるようであった。庭から漂ってくる金木犀の香り。
 
 ……もしかして、彼女の美しさは、絶望によって生み出されているのだろうか。私の脳裡を、そんな仮説が駆けめぐった。
 生きてゆくしかない。彼女はそう言った。日々が絶望にまみれていても、それでも私たちは生きてゆくしかない、と。
 仕事を辞めた同僚たちも、その人生はまだまだ先へと続いてゆく。残された私もまた、同じことだ。この重苦しい日常は、すべての者を平等に包み込んでいる。普段はそれが少し見えにくいというだけのことなのだ。ほんの少しの変化が、その重苦しさをふいに私たちの目の前へと突き出してくる。重苦しさは、いつも私たちを取り巻いているのではないのか。  
 そう思うと、先程の彼女の狂気もまた、違った表情を見せてくるように感じられた。絶望せずにはいられない、この感覚。彼女はその怜悧さゆえに、人よりも鋭敏な感性でそれを察しながらも、きっと誰にも理解されることのないこの絶望に、ひとり傷つくした方法がないということも悟っていたに違いないのだ。
 もちろん、これは単なる推測だ。しかし、今回ばかりは私もその推測に自信が持てるのだった。美しい彼女の寝顔が、すべての証拠を呈示しているように思えてならなかったのだ。
 
 私はもう一度、枕許の薄荷の飴を新しく口に含んだ。今度は吐き気に惑わされることもなく、あのすっきりとしたほろ苦さが居心地の悪い甘さとともに身体の中へと拡がっていった。その味は、まるで愛に似ていた。
「あなたを愛しているからこそ、わたしはこの絶望に堪えてゆけるのよ……」
 恭子の優しいささやきが、耳の中で何度もこだましていた。不思議な気持ちだった。先刻まではその告白にあれだけ恐懼していたのに、今はほろほろと私の心を溶かしてゆくように、それは私の胸に響いてくるのだった。
 
 生きてゆくしかない私たちは、いつか必ず死んでしまう。その事実は誰も避けることができない。しかし、愛をともなった死の宣告だけが、その真の意味に気付いた者だけが、その絶望をしなやかに受け容れる心を持ち、真に生きてゆけるのではないだろうか
  
 
 私の表情に自然と笑みが浮かび上がろうとしていた。こらえようと思ってもそいつはどこまでもあふれるこの雨のように止む気配を見せようとはしなかった。とても穏やかな、やさしい気持ちだった。どうしてそんな気持ちが急にわき上がってきたのか、私にはやはりわからなかったのだが、もうそんなことはどうでもいいことだった。
 私はもう一度恭子の美しい寝顔を見つめた。スタンドライトの白い光を受けた彼女の肌はとてもすべらかで、その清らかさに、私は敬虔さにも似た愛を感じた。そして、彼女が目覚めたとしても、私はそこに真実の愛を感じることができるのだと、そんな確信さえ抱いていた。
 
 時計は午前三時を示していた。相変わらず連続秒針は二十秒にさしかかると無為な銀光を返していたが、今はその輝きも数ある哀しみのひとつとして、私の胸にちくりと届くのだった。
 眠らなければならない。明日も仕事が私を待っている。私たちはそうして生きてゆかねばならないのだ。
 でも、今はもう少しだけ起きていたかった。恭子の穏やかな、美しい眠りを少しでも長く見守ってあげたかったのだ。
 そして、しばらくの間、私は乱れていた彼女の黒髪を整えるように、触れるか触れないかの繊細さでやさしく彼女の髪を掻き撫でながら、先刻まで彼女がそうしていたように、堕ちてゆく晩秋の雨の音にじっと耳を傾け続けていた……。
 
 
                                 《終》 

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